Amor Maior のこと(1)

 ある日、大塚カーザヴェルヂでの仕事の休憩中に福和誠司が、歌詞をつくっているから曲をつけてくれと大学ノートを開き、馬場で呑み屋をやっているオゴウさんのことを書いた歌だと「ダメマスター」の歌詞を見せられ、その数日後、当時、誠司やコッキーらが共同生活していた大塚のマンションに呼ばれ、さぁ今から曲をつけてくれと缶ビールと「太陽族」の歌詞を目の前に置かれ、リリース直後のアルリンド&ソンブリーニャの一枚目を、このラジカセ全然低音が効かないんだよと言いつつ爆音で鳴らし、この曲のこの感じが良いとか、ここはちょっととか、あれこれ評しながら、私のオリジナルの足りない部分を彼なりに伝えたかったのだろうが、何分若さゆえこちらも少しカチンときつつ、酔いも程よく回ってきたところでざっくり曲をつけ、隣室に居たコッキーも交えてその場でデモをつくった。

 誠司はある程度書いたら創作ノートをそっくり私に手渡し「ダメマスター」ほか、書きかけのものは補作し、曲をつけては大塚の共同部屋でデモを作り、大塚の共同生活があえなく終焉した後は、四谷の私のうちへ誠司が転がりこんで、どんどん曲を書いていった。しばらく関西へ遠征する前にもらった歌詞に神戸で曲をつけた「あの遠い街まで旅したい」、関西から帰ってきたその場で即興的に作った「神戸」、仕事の打ち上げの酩酊状態で作りはじめ完成したら朝になっていた「ひとつ夏の朝」、死に直面した友人を励ますために書いた「はじまりの歌」など二年足らずで百曲は書いただろうか、この時期にサンバ国風化の礎を築いたと自負している。近隣住民がグルになって餌付けする野良猫どもの小便の臭い立ち込めるアパートのゴミだらけの部屋で大酒喰らいながら阿久悠論から性の悩みまで語り合った、あの頃を思い出すたびに懐かしさがこみ上げてくる。サンバによってJ-POPが失ったものを取り戻すのだという、何かしら今に繋がる意識が確かにあった。Amor Maior結成に至る事情は大体こんな感じ。ちょうど私の少年時代に重なる歌謡曲からロックへのパラダイムシフトより必然的にサンバの時代が導かれると本気で考えていた。勿論、今ではより一層固くそう信じている。

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